ムカつく上司でも、ぶっ飛ばさないために

ついに来てしまった。

白い息の彼女は『新宿バッティングセンター』の文字を見上げる。

「外回り行ってきまーす」と小声でささやき、会社を抜け出した彼女は、どうしても今日、いま、ここに来る必要があったのだ。

スポーツ万能、とは言い難い彼女は、おそるおそるバッターボックスに立った。電光掲示板のようなピッチャーの下に、残球数のカウントダウンが表示される。

ガションッ

体を動かしてラクになる日もある

そのスピードと音に、彼女は呆然とする。

ゆっくり、を選んだはずなのに。ぜんぜんゆっくりじゃない。当たるとすごく痛そうだ。こわ……と、思わず後ずさり、自分の足元がヒールだと気づく。

これってストップボタンとかないのかな? と、キョロキョロしているうちに、電光掲示板ではカウントダウンが始まっている。ガションッ

『トロトロしてるからだろ、お前が』

2度目の見送りに、上司のセリフが重なる。

トロトロはしてるかもしれない。してるかもしれないが、今日、私と派遣さんが会議に遅れたのは、彼が時間変更を共有しなかったからだ。我ながら些細な出来事だが、いつもそういった小さなミスを押し付ける上司に、限界がきてしまった。

トロトロしてるなんて、もう絶対言わせねえ。

わー!と叫びながら、一心不乱にバットを振った。空振り。頰を切る風が冷たい。だけど、気持ちがよかった。電光で赤く浮かび上がるピッチャーを見据える。

息が上がって、心が静かになっていく

かちゃんかちゃん、かちゃん、と再び300円が吸い込まれていく。

ボールに対する恐怖からか、「わー!」とか「キャー!」とか叫び声をあげる彼女に、周囲のブースから視線があつまるも、にやにやする人はいない。

無料のレンタルシューズに履き替えて、ついでに新しい軍手を100円で買った。カウンターのおじさんは、いかにもサボりOL風の彼女にも「がんばって」とやさしく微笑んだ。

もう彼女は自分のへっぴり腰も、打率の低さも、寒さでこわばっていた指先も気にならない。バットを振るのは想像以上に全身運動で、あっという間に少し汗ばむほどだ。平日15時半のバッティングセンターは、好きなだけ自分と向き合える。

「明日、筋肉痛だなあ」

でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。明日の自分に文句を言われても、もう1ゲームやって、会社にかえろう。大したことないじゃないか。

コートを着て、マフラーを巻いて、何食わぬ顔で会社にかえったら、どうせ上司にきっとまた些細で、でも、すごくもやっとする仕打ちを受けたりもする。そうしたら、またここに来よう。就業時間にくるのはよくないから、仕事終わりにでも。新宿駅から徒歩10分で、こんなに頭を静かにできる。

カツンッとバットに手応えがあった。今までで、1番綺麗な弧を描いてボールが飛ぶ。ただのヒットだけど、彼女にはそれがとても嬉しかった。

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新宿バッティングセンター

10:00〜翌4:00

なし

03-3200-2478

東京都新宿区歌舞伎町2-21-13

新宿駅 徒歩10分

Editor 小西麗
Photographer 橋本越百

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